結末を求めて

koikeakira2013-03-31

映画の話をしますが、レビューなどではありません。
レビューはもう書くまいと思っています。この映画のことを書かずにいられなくなっただけです。
タミル映画、「3」。
愛のために死ぬ男の話です。しかし、誰かにこの映画を薦めようという気は全くありません。
これはレビューではありません。

前半は純愛で、主人公とヒロインの拙い恋のやりとりが可愛らしくて感動的です。おそらく誰の記憶の中にもイデアとして存在しているだろう、そして二度と現実には具現化しないであろう青春の風景が描かれています。もう絶対に先進国では味わえない恋と言えばわかりやすいでしょうか。
後半にはヒロインと結婚したのち、狂気と戦う男の様子が書かれます。精神を病んだ主人公は、愛を失うことを恐れて自死し、ラストに夫の真意が妻へと伝わります。

これに近いというかほとんど同じ話形の映画に、フランスの「妻への恋文」があることが思い出されます。この映画も前半にロマンス、後半に愛を永遠たらしめるための自死、ラストに夫の真意が妻に伝わるという構成になっています。

前者は泥臭いほどシリアスでセンチなのに対し、後者は軽快でフランスらしいエスプリの全く異なる雰囲気で、構成は驚くほど一致しますが、創作に関連性があるとは考えにくいです。しかし双方とも私の魂に響く作品で、特に妻への恋文を見たのは小学生の時でしたが、その時から私の血肉となっていました。

ところで私がなぜレビューを書かなくなったかというと、レビューを書きたくなった時は、レビューと冠しても結局いつも自分のことを書こうとしていることに気づき、キーボードを打つ手が止まってしまうからです。

誰しも自分の願望や、欲望や悔恨や郷愁が映し出されたような作品に心を捉えられると思いますが、レビューを書いているうちに具体的対象のことを思い出し、それが何であったのか明らかになります。レビューを書くということは、その作品で描かれていた何かと自分の知っている何かを、なぜ同一視してしまっていたかを次々と露にする、内的な解体作業たりえます。
私の場合、レビューを書きたいと思う時は決まってその解体を必要としている心の未整理の部分の混乱から客観性を失っているので、それを人に読ませようとしていた自分の浅ましさに恥ずかしくなります。
自分自身の混沌を整理しきれない時は、レビューを書く行為は内的思索の手段にとどめるべきです。

というわけで、今書いているのはレビューなどでなく、私の内的思索の記録です。

なぜこの2つの映画に、こんなに惹かれてしまうんだろう?問いを立てずにいられないほど全く雰囲気が違う映画だったから、疑問を持った時に点と点が補助線を描き、その原因である私の潜在的な願望が何であるか気づくことができました。「妻への恋文」と「3」の二つは、私の潜在的な願望を描いたものであること。そして私は、私のために死んでくれる人を探しているのだと、強く実感しました。少なくとも、そう思わされました。その演繹が面白かったので、今回久々にここに書いています。

もちろん、愛する人を失うなんていう想像もできない苦しみを味わうのは嫌に決まっていますが、無意識レベルの願望として、多分、私は本当に恋人に死んで欲しいのだと思います。

私はいつも恋人を愛し過ぎ、また、過剰に愛させようとしてしまいます。
恋人という一つの具体的な対象を通して世界を見て、客観性を失うことをむしろ嗜好します。
傷を晒し慰め合いながら相互依存性を深めることを愛の成長とみなし、
私を愛し続けることで彼が支払わなければならない代償の大きさは愛の深さの主な指標です。
そのような恋愛をしていて苦しむのは自分自身であるにもかかわらず、そうせざるを得なくなるのは、究極的には自死という形での私への愛の証明を、潜在的にしかし強烈に求めているからです。

我ながらなんて恐ろしい女だろうと思いますが、そういったことが、この2つの映画を見たことでやっと自覚できたのです。この生まれ持ったカルマと言っていいほどの歪みは、消失させることはすぐには難しく、どうコントロールするかが問題です。

私の中には、愛の贄を欲する餓鬼がいます。そう自覚したことで、恋人に対しての立ち振る舞いが早速変わりました。このことに気が付いて、本当によかったと思います。

実のところ、この2つの映画を見なければ、私は一人を殺めることになったかもしれません。今私の傍に、恋人というべきか虜というべきか、一人の少年が身を寄せています。
彼とは一年ほど前、変わった出会い方をしました。彼は、私が彼の命を救ったと思っています。私が彼の自殺を非常識な方法で制止したのは事実です。それから彼は、私が望んでいなかったにも関わらず、彼の生殺与奪を社会的にも肉体的にも好んで私に差し出し、私との同一化を目指し、今や生理的な性質として私が同席しなければ一切の食物を摂取しないなど(実際に私が出張の際にたびたび栄養失調になっています)私以上に強烈な依存志向を発揮して生きています。彼は私の歪みの形に嵌るピースとして出現したのかもしれません。

私が死ねと言えば喜んで実行すると、むしろその命令を今か今かと待っているようなこの子供を、私は自立へ、開放へと向かわせたいと思っています。
しかし時に、彼の自己犠牲的愛情表現や、もう壊れた方が自然であるような痩せこけた傷だらけの躰を見ていると、私は彼を望み通りの形にしてあげたくなることがあるのです。

危うすぎて恋と呼ぶことができるのかどうかすらわからない剥き出しの命のやりとりの中で、私は無意識に彼をふたたび自死へと向かわせていました。
今度は、私への愛ゆえに死ぬように。
そうでなければ説明できないような非合理的な愛情表現を彼に強いるごとく、彼の心理に政治的な誘導をかけている自分がいることを、自分でもどこか不思議に思っていましたが、抑えることができませんでした。

今、私は彼をどう開放してあげればいいのか、自分がどうしたいのか、やっとわかったような気がしています。
いままで私が愛した人たちについても、私はどうして彼らとの破滅を目指したのか、本当は何をして欲しかったのか、もはや弁明の機会はなくとも、長年胸につかえていた絡まりが解けたように感じています。
これほどの開放は、人生において何度も訪れるものではなさそうです。

これはレビューではありません。
映画「3」は、今私が滞在しているモルディブのココアというインド洋の島で見た一昔前のタミル映画ですので、おそらく日本で探しても見れないと思います。
それなりに美しいですが完成度は低く、矛盾だらけで感傷的で俗気の強い映画です。字幕の英語も拙く見辛いです。誰かにおすすめしようとは全く思いません。
ただ、そんな映画が、出会い方によっては大きく自分を見つめ直すきっかけになることと、時期を見計らって必要な時に必要な人のところへ出現するということが、私の身に起きたということ、そして私がこのことをなんとなく予兆してモルディヴに来たように小さくも大きな奇跡が、きっとすべての人に起こり得るのだということを嬉しく思います。