他人を意識しない言葉なんて無価値だ。

koikeakira2004-11-19

アンテナやおとなり日記から、面白いブログは無いかとよく探しますが、日記代わりに日々の出来事を垂れ流し的に記録してある「ブログ」だけのものが大半を占めていて、読み物として意識された「blog」は非常に少ない。もっとも、はてな「ダイアリー」という名称ではあるのだけれど。
赤の他人の献立や、薄く引き延ばされたリビドーなんか知りたくもないし、知っても仕方がない。そんなブログに限ってリンクを狙って固有名詞がただただ羅列されている。間違えて読んでしまうと時間を無駄に使わされたようで腹が立つ。それに、今日はどこへ行って何を買ったとか、そういうことは手帳に書いたほうがすぐ読めるし本人にとって役に立つと思うのだが。
自分の手帳を他人に読まれたいという露悪的な願望なのだろうか。自分のブログに何を書こうが勝手だとは思うが、だとしてもそれに付き合わされるのはご勘弁願いたい。
カフカが生涯発表せずに自分のためだけに書き貯めた小説は、内容な難解でも他人に伝えるための言葉で書かれていた。作品を発表するか否かではなく、そこに意味があるとういことは、言葉を愛する者とにとっては当然の本能的な知識だ。
「他人に読まれることを前提にして書いていない、自分のために書いている」といった言い訳を、よく某作家の取り巻き(私もその一人だった)が口にしていたけれど、言葉は他人とコミュニケートするものでありそれに尽きると思う。「だから理解されなくてもいいんだ。売れなくてもいいんだ」というのは常に願望の裏返しでしかなかった。