悪意の善行

koikeakira2004-12-13

席を譲る、荷物を持つ、車椅子を押す・・・
私は見知らぬ人に親切にするのが好きだが、吝嗇なのでタダではやらない。
その行為を通して、自信や満足感や恍惚が得られる場合にだけ動く。
とはいえ、事を大袈裟にしたりなどはしない。
例えば席を譲る時は他の人に見えないくらい小さなサインを出して立ち上がると、相手の感謝の言葉の語尾も聞かぬうちにその場から立ち去ってしまう。
そうすることによって、むしろより大きな感動を自分の中に得ることができるのだ。
そんな私と、そっくりな人物をカミュの短編「転落」の中に見つけた。
自分が完璧な人間であると信じていた弁護士ジャン・バティスト・クラマンスは、街角で常に善行を施すチャンスを伺いながら暮らしていた。
それを見つけるや否や彼はさっと駆けつけ、相手の感謝の言葉の語尾を遮るようにこう言い去るのだ。
「このくらいは誰でもしますよ」
その彼自身の声とともに、彼の自己愛は頂点に達し、恍惚はオルガスムスに至るのだ。
そんな彼の内部にも発酵する何かがあった。
ある日、彼は老婆の荷物を持ち、手を引き、道を案内したあとでいつものように「このくらいは誰でもしますよ」と言おうとしたのだが、間違えて
「ここまでは誰もしませんよ」
と言ってしまう。そしてそれこそが彼の本心だった。
間もなく、彼は橋から川へ飛び下りる人影を認めてしまう。
しかし季節は冬で、彼は後を追って助けることをしなかった。その出来事が彼の自己愛を完全に打ち砕き、ジャン・バティスト・クラマンスは場末の酒場へと転落していった。
私にも、転落への道が開ける日が来るということかと思われるだろうが、違う。ジャン・バティスト・クラマンスの善行は、自己を高めるためにあったが、私の善行は転落の末にある。
私の恥ずべき善行を懺悔しよう。
JRの職員がラッシュアワーの乗客たちを総じて「ゴミ」と呼んでいるという話があったが、真偽のほどは明かではない。
しかしそのような悪意を受け取る経験はあるものだ。
私はそんな職員に対してこそ微笑とともに「おつかれさまです」と言ってやりたい。
何かに苛立ち、私に対して非礼を続けた者に対して、こちらが菩薩のように礼を尽くしてやると、相手が私への敬意を抑えきれなくなり、今までの悪行と自分の器の小ささを恥じ入る瞬間がある。
私にはその瞬間の表情がたまらない。
私は気付かない振りをしながら、その表情を堪能する。
電車の中で老人に席を譲るのに「先を越される」と、イライラして最初からそのつもりはなかったと言うように携帯のメールを打ち始める。
成功した場合は、席を譲ろうともしなかった人々に対し軽蔑のまなざしを向けたくなる。恥を知れ!と。
私の善行は、自分を高めるためにではなく、他人を貶めるためにあるようだ。
純粋に人の役に立ちたいという気持ちもあるにはあるのだが・・・。
やっていることが善行だけに、誰からも非難されない。
しかし私の内部にも怒りや高慢さなど発酵しているものがある。
いつか腐食が現れる日が来るのかもしれない。
私はその日が早く来てくれればいいと思う。
私は喜んで変化を受け入れると思う。