小倉千加子の三著作 感想

そもそも私はフェミニズムに対し偏見があり、興味がなく、本を手にする機会は今まであまり無かった。
偏見の本質は、ある集団が同じあやまちを繰り返していると思ったときに生じるものだと思う。
イメージとして、フェミニズムが踏襲してきたあやまちとは。

1。フェミニストは理論的でない
怒りをこめずには語れないことだけれど、ヒステリーによる飛躍が文章の秩序を台無しにしてしまうのは、理路整然を好む読者層には受け入れられないだろうし、それがあるうちはいつまでも一つの思想の体系としての地位は築けないだろう。
そもそもフェミニズムの足場には「平等」や「人権」といった理念があると思うけれど、それらの理念は国際交流社会に向けて、構造主義以降突如として現れたもので、根拠や理論的な煮詰まりを得たものではない。いわば理論の底上げ材として使われてきたこの理念は、空気を吸って膨らんだ風船のようなもので建設の足場としては頼りない。
なぜ女性は男性と平等なのか(ソフトフェミニズム)、あるいは男性より優位にある/あらなければならないのか(ハードフェミニズム)、をしっかりと説明できた時、フェミニズムは完成を見るのだと思う。
2。フェミニストは女の幸せを知らない
国内において小倉氏をはじめ、お世辞にも人から羨まれる容姿を持つといえるフェミニズムの活動家を、私は知らない。
男性的システムや男性的ファンタジーを強制させられることで、女性の側にも恩恵や幸福があることは確かなのだ。
だから非フェミニズムの弱き女たちは黙っているか、反感を抱きつつもその甘露だけすすって男性に張り付いて生きている。
そうした大多数の女性をフェミニズムに取り込むには、女性が幸せになるためには男性的システム/ファンタジーの恩恵を教授しない方がより得だと思わせることが必要だろう。そのためには、小倉氏などがその恩恵を十分に知り尽くした上でそれを拒否するという態度やイメージをつくるべきだが、それが欠落していると感じられた。

以上のようなことが私が抱いてきたフェミニズムへの偏見だ。
ところが小倉氏の三著作を読んで1。に関してイメージは払拭された。

セクシャリティの心理学」は稀に見る良著だ。ジェンダー、思春期の矛盾、セクシャリティの形成過程、恋愛、幅広いジャンルにまたがる難問を解くその切り口はまさに快刀乱麻。私はこの本だけを読んだ時、著者が女性であるとも、フェミニストであるとも知らず、思わずにいた。
ただ明晰な、冷静な、目立たないが確かな仕事をする学者だと思った。
これはすばらしい著者を発見したと、喜び勇んで「女の人生すごろく」を読んだ私は絶望に突き落とされた。
そこにあるのは、ただの大阪のおばさんが漫才まじりで、あることないことを根拠に、また一部の男性を無理矢理一般化したりして、ヒステリーを爆発させている姿だったのだ。
これはおかしいと、「セックス神話解体新書」を読む。
それは二著作の間をいくような、理論とヒステリーのパッチワーク。
一体なんだろう、これは。

おそらく彼女は二つのことを同時にやろうとしているのだ。
理論体系を築くことと、草の根的活動。
そう思うと、二つは相反する属性のものではなくて、複雑に絡み合っているのだということが、ようやく行間から読めてくるに至った。
そしてどちらが女性の地位向上のためにより差しせまってやるべき活動かというと、明かに後者なのだ。
彼女は自分が築こうとしている理論体系を受け入れることのできる世の中をつくろうとしている。
尊敬すべき活動家だ。
しかし。2。については(以下略)