責任という言葉

バブルが終わり企業が守りの時代に入り、吝嗇の制度化が徹底されたうえ、盗聴法案が功を奏したかマスコミの画一化は目に見えるようになった。向かうところは革命が起きない世界だ。左翼やリベラリズムすらシステムに組み込まれている。
多少の批判や憶測、思うところを述べれば、中傷や名誉毀損や営業妨害などと言われて「処理」対象にされてしまう。そしてさらに少し攻撃的になってみるとまず浴びせられる言葉がある。後ろ楯がある者の傲慢さの裏返しであるあの台詞、「自分の言葉には責任を取れ」。今の社会は人を肉体の単位に収めようとする社会だ。
自分の言葉に責任を持つということがそんなに大事なことなのだろうか。責任を持つ意志があろうとなかろうと、発言はその人の環境を作っていく。取り返しのつかないことをすれば人生に取り返しがつかなくなるし、リセットしようとする意志があるならそれをむやみに邪魔するのは人道にもとる。
だいたい、権力があればあるほど自分の細かな言動に責任を持たなくて済むので、もみ消せる範囲の気軽な悪事を繰り返しやすいし、自分が覆されない自信から上記の台詞を好んで使うようになるのだ。