処女膜は体の外にある2

koikeakira2005-09-30

私の住んでいたマンションは、潰れたラブホテルを改築した奇妙な建物だった。ところどころに名残りがあり、天井の一部はガラス張りだった。私はちょうどその下にダブルベッドが来るように置いていた。そこに寝て天井を見ていると、蜘蛛の巣のまん中にいる蜘蛛のような気持ちになったり、それを見ていて気持ちが悪くなったりするのだった。
化粧は上出来だ。チャイムが鳴った。
「誰だお前」「えっ。こいけですよ」「ずいぶん痩せたな。病気?」「まあそんなもの」「ジャイアンスネ夫君になる病気か?」「なんでしずかちゃんじゃないの?」「煙草が似合うしずかちゃんか」「あはっ」
ドアを開けると照れ隠しにまくしたてる挨拶など相変わらず、少し背が高くなったけれどイメージ通りの彼がいた。
「しかしまるで別人になったな。びっくりした」「そう?」「女だったんだな」「何だと思ってたの?」「モンスター」「うっ。このやろ」「くくく。でも本当に信じられないくらい変ったな」「前よりはキレイになったでしょ」「そりゃそうだよ…」
ココアを温めに台所に立ちながら私はニタリとした。いい感触だ。今から長年焦がれ続けていた彼の体や唇を味わえるのだと思うと頭に血が上り、興奮して震えそうになった。カップを持って部屋に戻ると、彼はリラックスした様子で私のベッドに寝転んでいた。心臓が痛いほど脈打つ。中学校の3年間溜め続けた彼への煩悩は、消化されないまま私の中でとぐろを巻いている。一度彼の肌に触れたら、狂ってしまうだろう。
彼が寝そべるベッドにそのまま私も隣にと思い、カップをテーブルの上に置こうとしたら、彼は身を起こして全く何気なくそれを受け取ってしまった。「いただきます」。行儀よく座ってカップを傾ける。彼が気まぐれな仕草で私を悩ませるのは昔からだ。どうしたらいいのかわからず呆然と立ったまま飲んだココアの味なんて全くわからない。私はひるんで、なんとなく彼への気持ちを押し殺していた昔の頃の振る舞い方を思い出してしまった。そしてつい、彼と同じダブルベッドの反対側に離れて座ってしまったのだった。少し混乱し、彼は私をからかっているのかもしれないとまで思った。あるいは、彼は昔と全く変らない感覚で、私の家に「遊びに」来ているのだろうか。
ベッドの上に向かい合って座ったまま、我々は談話を続けた。寒い日だったので、一枚の羽毛布団に二人の足を潜らせながら。彼の口は滑らで、私を楽しませようとしてくれる気遣いに溢れていたが、体は硬直していた。私にもなんとなくその硬直が伝わった。だんだん、身動きが取れなくなってきた。彼にはたくさん喋ることがあった。私にはあまり無かった。歯がゆい談笑だった。お互いが緊張をごまかしながら笑い合って、三時間が過ぎようとしていた。
ふと事故のように、私は自分のつま先で彼の足をそっとつついた。私はそこからこの金縛りを解こうと考えたのだ。同時に独特の目線で彼に訴えた。恋人同士ならすぐに意思を汲み取ることのできるあの目線。しかし、彼の反応は…それに気づかないふりをするというものだった。彼は何げないふりをして話しを続けた。彼は私の使っている言語について未知だったせいもある。加えて彼はとても恥ずかしがっていた。自分が恥ずかがっていることまで隠すつもりだ。
私は、彼を無垢のまま家に帰してやることに決めた。彼の中にある恐れや恥は、私を臆病にさせた。彼には私の欲望を退けるバリアのようなものがあった。ずっと触れたかった人が目の前にいて、それがきっと多少なりとも予感を持って家に来てくれたはずなのに。でも、今ここでこの人に触れるのは間違っていると感じた。彼にとってまだ時期ではないのだ。動物のようにはなりたくなかったし、彼を見ているとなれなかった。彼がとても人間的だったから。
私の表情が変ったのを見てか、彼は「疲れてる?」と聞いてきた。私の意思を確かめる意図もあったかもしれない。私はもう決めていた。そして、体を投げ出せなかった分、心を彼にまかせたくなってしまったのだろう、私は死を切望していると漏らしてしまった。多くの若者に訪れる、魂が荒野を彷徨う時期だった。「こうして話をしている間にも、頭のどこかでは死ぬことを考えちゃうの」彼に甘えたいという気持ちは強かった。しかし彼は毅然としていた。「バーカ。自殺なんか考えるのはお前がヒマ人だからだよ」「…」「必死でイノシシおっかけてる狩人が自殺について考えるか?人間忙しくしてれば、そんなことは考えないよ」「私は走っている間にも考えるよ」「それはお前が腹減ってないから」「そっか」「考えすぎなんだよ。馬鹿。ヒマ人。」
しばらくして、私はもうすぐバイトだと言った。彼は帰る支度を始めた。本当はバイトなどなかった。夜深くなる前に彼を見送りたかった。彼が去って、私は一人でベッドに寝転び天井を見た。彼の使ったカップに口をつけ、彼の匂いが残る布団に顔をうずめた。狂おしい匂いだった。私は彼のことを今までよりもっと好きになり、また、彼のことを幸せな気持ちであきらめた。
私小説おわり)