内向きな文化

5、6年前韓国にH.O.Tというアイドルグループがいて、韓国国内では音楽に関するあらゆる記録を更新したくらいのビッグな存在なのだけれど、私はそれを初めて聞いた時、日本のポップスを凌ぐ音作りのクオリティの高さと、メッセージの政治性の濃さと、メンバーのルックスとのギャップに仰天した。
できそこないのビジュアル系のいいとこ取りが失敗したような、チャラチャラのキラキラのペラペラなルックス。
そんなお兄さん達が、
「母や、祖母や、その母が耐えねばならなかった屈辱の数々。
(日本に)復讐を!」「先生、そのコを叩く前にもう一度考えてくれ。自分の都合なのか、愛なのか」「子供達の手は灰にまみれていて、手は灰にまみれたまま大きくなっていく」(拙訳。雰囲気だけと思って下さい)なんて。

「お隣韓国でさえこんなにポップアートが政治的なのに、日本はどうだ。売れているポップソングは、彼氏が彼女が好きで嫌いで辛いぞ恥ずいぞ嬉しいぞと、恋愛や自分のことしか歌ってない。まるでただの子供じゃないか。」そういうありがちな非難とまるっきり反対のことを言ってみるテスト。

ここまで自分の内部にしか興味を示さない文化圏っていうのは、超貴重なのでは?何故かはともかくとして。

「世界とは精神世界のことであって、社会ではない。」そんな前提が、私の薄弱な自国文化体験による、日本文化の基本のように思えるのです。
社会で努力をした結果良い思いをしている人は、そんなのはただの逃避だと言うだろう。でも精神世界より社会の方が重要だと思われるようになったのは、ごく最近からのことじゃないだろうか(ある程度の身の安全が前提でね)。
そんなのはなんとも狭見と違いますか。
私がより良い思いをしているのも、やはり社会においてよりも精神世界においての方がよほど多い。いや、私は現実においても相対的にかなりハッピーうれピーよろピくねーという状況なのだけれど、バビロンは私を満たさないのだ。
無数のブランド物のバッグより、バルラハの彫刻の写真を一点眺める方が、私の心の安定に結びつく。
至高のものについて言えば、芸術ってやっぱり高尚なのだ。


ところで、政治に対し興味を無くす理由はごまんとある。歴史は同じことを繰り返しているし、ある悪の力がある悪へと移り歩くだけのことを見つめていても空しい。
ラディカリズムの活動家も、隠遁生活者も、利権の円環から外されていれば、関わっていないに等しいと思う。
仕事で毎日政治家たちと接していると、彼等の支配する世界ではどのようなモラルも理念も人間性も、幻想にすぎないとうことを嫌というほど知らされる。(具体例は出したくても出せない、私の生活のため。でも皆想像つくと思う)市井の声なんて無いと同じ。しかも政治家にとっての「市井」は私たちが考えているよりずっと範囲が広い。ゆめゆめ自分を中流と思うなかれ。
関わりたかったら自分が権力を持つことだ。どうやって?まず一つの悪に取り入ること・・・。
少しの虚無と知恵があると、彼等に関わる気力なんて無くなくのだ。私はむしろラディカルな運動に心血を注ぐ人の動機がわからないし、そういう人には情報が足りないのではないかと心配してしまう。もちろん全て一般化する前に、個々で優秀(有効と思う活動団体もあるのだけれど、それは企業とかロータリークラブとかであり、表立ってラディカルではないのです。