釣り人のありかた/釣りとは何か

(koikeakira)
釣り人としては、糸の先に針をつけずに垂らすだけの、仙人やスナフキンの釣りが究極だな、とか思っています。
北欧などではガム一つ捨てただけでも罰金になったり、「自分の家よりも川を大事にしろ」っていう自治体もあるそうです。それになにより「ゆっくりと釣りを楽しむこと」。焦らず、はやらず、ルールではなく、それが釣りであると。 なぜ功を焦るのか、そもそもそれは功なのか。根本から違うんですよね。
(ばすたつ)
それこそは、至高の理想です。 多分、全てのしがらみから抜け出せたら、僕にとっての釣りは全てそうなるでしょう。
「自分の家より川を大切にしろ」 メチャいい言葉だとおもいます。一度フィールドを壊した経験のある人間たちしか語ることの出来ない、苦い思いみたいなものが詰まった言葉だと思います。
(koikeakira)
釣りは人間と自然の関係性を端的に現したものだと思います。
人間は、頭を使うことで魚を相手にケガをせずに恩恵を受けることができる。その意味で、釣りをして関係を確かめるのはとてもいいことだとは思います。
(hissa)
「(他人を)エサで釣る」という慣用句があるように、釣りという行為に一種の欺き(あざむき)と罠にはめたという愉悦があることが、釣りの興味深い特性であり、また議論をややこしくしている原因だと感じます。
魚をモリで突く場合のように、食べたいから殺して捕らえるという姿勢がストレートに伝わる場合には、この行為に倫理を問う人は少ないでしょう。漁業にしても、食用資源として捕獲して殺すという事は自明ですので、たとえ生態系にダメージが甚大だったとしても、モラルの問題にはなりづらい側面があります。
生き残るために他者を欺く術(すべ)を駆使するところにおいて、人類は恵まれた能力を持っています。人類が単独で狩りをおこなう生物であればなんの問題もありません。しかし、集団を作り社会生活を営むには、互いを欺くことで失われる利益を最小限に食い止めるためのルールが必要になります。これがモラルの基礎となる部分です。
この「欺きを抑制する」というモラルの対象を人間以外のものにあてはめることで、一体誰が利益を得るのか考える必要があると思います。人間なのか、擬人化の対象とされた魚なのか、生態系としての魚なのか。
ぼくは、「欺くという貴重な能力を磨くために魚を釣るのだ」と主張されたら納得してしまいそうです。ただしそこには人間間のモラルと同様に、マナーがなければ教育的な効果は薄いと思います。できることなら、生存のための活動が地球環境を脅かすまでに肥大した人類の一員として、「人間のための生態系を最大限に保護する」マナーを学ぶための手段として釣りがおこなわれればベストだと考えます。
(koikeakira)
実に新鮮なご意見でした。確かに、そう言われれば私も納得してしまいます。ごく小さな部分ですら欺くということのできない、要領の悪い人を見ていてイラついてしまうことがあることも否めません。天才的な詐欺師を傑人と見る趣もあります。