ガチンコ

デジャヴの中にアムロ・レイとシャアの姿がちらつきます。どうしてこういったドンパチ映画は最後にガチンコを持ってくるのだろう。クライマックスでの主人公とそのライバルは、いつも無理矢理モビルスーツや車やシップから引きずり出されてきて、拳を握らされる。それまで持っていた得物を剥ぎ取られるのは当たり前、代わりに剣を拾わされることも決して少なくありません。そんなに体で勝負したかったのなら、最初から相撲でも取ればいいじゃない、と思って冷めてしまいます。体で勝負を決めさせるわりには、結局ライバルの死因は最後の大爆発だったりシステムや建造物の崩壊だったりして主人公が最後に手を下すパターンはあまりありません。「男って馬鹿よね」って台詞で溜飲が下るほど私も馬鹿になれませんが言ってみたい衝動には駆られます。
運命を象徴するような負け方って、主人公に素手でぶちのめされるより他にもっともっと悲惨で劇的なのがたくさんあって、ラスプーチンみたいに最後は逃げられるわけがない場面で阿呆みたいに逃げて銃殺される、なんて惨めで平凡な死に方をされるほど、人々はまだ生きてるんじゃないかって噂をしたくなるとか、夢中で戦っているうちにいつの間にか勝ってしまった、あるいは本陣が勝利を宣言していたのに自分だけそれを知らずに戦っていた、みたいなリアリティとか、あるいは逆に殴り殺した相手の死体や光景が自分でもショックで勝利宣言ができない、なんていう展開が主人公に訪れてもいいんじゃないかと思うんです。劇的じゃないと言うかもしれないけれど、描き方によってはより劇的にできると思います。