クラシックの聞き始め

koikeakira2006-12-09

子供を連れていけるコンサートを見つけるたびに行っています。大人向けのコンサートには欠落してしまった良さがあるものです。
チャリティーコンサートが多いというか、子供向けのものはほぼ例外なくチャリティーだったりしますが、有志の集まりで作られたコンサートは「やりたい」が原動力なのでものすごい本気を感じられます。余裕があればこそできることですが、見ていてとても気持ちのいい幸せな舞台が多いです。

スポンサーの見栄の張り合いにつきあわされるようなコンサートや前衛気取りのひとりよがりな演出、観客不在のコンサートのなんと多いこと。4〜5年前サントリーホールの年末第九に行った時などは演奏者2名、寝てました。びっくりです。(ひょっとすると東京フィルの人ではないのかもしれません。スポンサーの身内で舞台に立ちたい人を座らせておいただけ、とか。そう思いたいです)

また、観客側も子供がいるのである程度の雑音は仕方ないという前提でみんな来てるので、鑑賞態度に余裕があります。一音たりとも逃さず聴こうという殺気立った吝嗇心とか、ぐっと押し殺した咳一つで無言の抗議を浴びるなんていう、悲しいことも起きないわけです。

きのう行ってきたのは塩野雅子さんのクリスマスコンサート。NHKの「みんなのうた」をたくさん歌っているオペラ歌手です。歌いながら体を張った演技、表情豊かで情感溢れているのにクセが無いのは、何よりも子供たちを喜ばせようという気持ちが第一だから。最高でした。

その前、先々週行ったコンサートでは演目にプリンク・プレンク・プランクという曲がありました。そもそも子供向けに作られた曲ですが、演奏しながらチェロやコントラバスをクルクル回して子供たちがケラケラ笑っておりました。タキシードに蝶ネクタイで決め込んだ真面目そうな演奏者がちょっと照れながらクルクルしているのがたまりません。回す練習したんだろうな〜、とか思いつつ。音楽はまず遊び心ありき。子供の目から見れば大人の音楽は、つとめてそれを忘れようとしているかのように見えることでしょう。

子供向けコンサートにはいくつかの傾向があります。まず子供が飽きないような工夫というのが第一に求められているので、プログラムは一曲一曲が短くて起伏に富んだものになります。(一番起伏が激しかったプログラムは「子守唄」の次が「誰も寝てはならぬ」というものでした。どうしたらいいのでしょうか。)知識がなくても楽しめます。まずクラシックは退屈だというイメージを回避することは本当に必要だと思います。

もう一つ、ほぼ例外無く「くるみ割り人形」がプログラムに入ります(笑)。でもそれって本当にいいことなんです。何度も同じ曲を違う演奏で聞くのが楽しいということは、まさに入門者が知るべきことではないでしょうか。子供が知ってくれたら幸せです。

町田ひらくに女性ファンが多い理由

(一説によれば「圧倒的に」)女性ファンが多いのは、少女の内面の描写が甘く繊細であり、絵も綺麗で可愛らしいせいもありますが、もう一つ私が憶測するものがあります。それはセラピーとして町田ひらくを読む方法です。
性的に傷つけられたことのない女性など、どこにもいません。あるいは性的暴行という極端な形で、あるいは痴漢や暴言やつきまとい、子供の頃に無知につけこまれて等等、忘却という才能に恵まれていなければ、ほとんどの女性ができることなら掘り起こしたくない忌まわしい記憶を持っています。
そうした記憶がふとした瞬間に意識へと浮き上がってきてしまった時、身勝手な男達が何の罪悪も感じず罰も受けずにいることは被害者を孤独へ陥れます。
町田ひらく作品に登場する女の子たちは皆、傷つけられた自分自身であり、またその傷を一緒に負担してくれる仲間です。

新作「黄泉のマチ」のレビュー

今作は前作の発売から2年待ちました。あとがきにあるように、漫画家を辞めようと思ったりといろいろな苦悩があったようです。町田ひらく氏が苦悩するのはこの方の常態であるようにも思えますが、確かにシリーズ「たんぽぽの卵」は以前よりはるかに増して絶望の色に満ちています。

このシリーズを書くにあたり、町田氏は完全に和姦を諦めたようです。完全加害者と完全被害者しか出て来ません。今までの作品の傾向は、なんとかして幼女との和姦が成立しないかと模索するような内容も多くありました。今回は「吹っ切れた」感じがします。少女を傷つけずに劣情を果たすことなど、あるはずもないのだと。この悲愴は二次元の絵の上にはありません。

いままでの作品で特に少女の方から事を仕掛けてくるような物語では、少女の心の機微がこと細かくリアルに描かれていました。子供らしい好奇心やひたむきな強さ。そして女性らしい賢さ、優しさ。その表現は真に迫っており、思春期前の女の子の中に眠る母性の原型さえ見えます。郷愁すら覚えさせ、男女問わず読むものを惹きつけて離さないものがあると思います。内容自体がロリコンポルノであるのにも関わらず、万人に町田ひらくを薦めたい理由の一つがこれです。

しかし「黄泉のマチ」では全くと言っていいほど少女の個性や内面を描きません。変わりに男共は醜悪さを極端に増し、ベトベトした気味悪い視線を少女へ注ぎながら、蠢くように少女に擦り寄ってきては一方的に搾取し、最初から最後まで虫のようです。
少女の内面を描くよりも、逆説的にこちらの方がより少女の内面に同調した表現と言うこともできますが、なにせ気持ち悪く、オエェっときます。もともと東南アジア系の小男を描くのが得意だった作者ですが、今回はとうとうベトナム人の女衒が登場しました。目をそむけたくなる醜悪な表情も見事です。快楽のためではなく断罪のために描かれたポルノが町田ひらくの他にあるでしょうか。

時系列で見ると町田ひらく氏の作品はだんだんそういった傾向にあるようで、新しいものほど少女姦の罪悪について深刻になっていきます。
深刻さにおいても、構成についても、「黄泉のマチ」はもはや煮詰まっています。設定があるだけでこれといったストーリーは無く、少女の内面に迫ることも避けられて、登場するのは気持ち悪い男達ばかりなので一抹のつまらなさを感じてしまったのも確かです。純文学的なつまらなさです。「MOUSE TROUBLE BLUES」の可愛くアホらしくキッチュなお話や、「お花ばたけ王朝紀」の遮られたキスの美しさなどを思い出すと、作品のバラエティに乏しくなるのは、作品の純度を研ぎ澄ますための代価としては大きすぎるのではないかと思えます。かといって失望などはしていません。むしろ一つの叙述方を極めた著者が、次はどうなってしまうのかと緊張するほど期待してしまいます。

町田ひらくの新作とか

koikeakira2006-11-26

ロリコンポルノ漫画家町田ひらくについて書いてみたいと思います。私はロリコンではないし娘もいるので三次元のロリコンは全滅希望ですが、それをひとまず差し置いて読むべき物語と表現が町田ひらく作品にはあります。見渡す限り失望しかない世界観と冷たく醒めきった語り口。巧妙な話作り。痛いほど苦い毒薬の中に一粒の砂糖を探すような味わいが癖になります。

タルムードの言葉

koikeakira2006-11-06

タルムード(ユダヤの生活典)より気になった言葉を二つ。原語は読めないし資料の正当性は未確認なので誤訳等あるかもしれませんのでご了承願います。

神はいたるところに存在したいために母達をお創りになった。
かつてあったと言われる女性信仰は影も形も無く、ヒステリックなフェミニズムとアンチフェミニズムがお互いをサンドバッグのように罵り合う昨今ですが、ではなぜ今、女は神ではなくなったのか。もっとも簡単かつ一般的な説明は、建築や技術(=男性性)が自然環境や災害(=女性性)を克したからだというものです。
ヒトは近代まで自然に負けっぱなしでした。建てても建てても風に飛ばされ波にさらわれ。大昔の苛烈な男尊女卑制を支えていたのは、男による女への復讐だったのかと疑ってみるのもそう無意味ではないと思います。

しかし日本の文化に女神とか信仰とかいう言葉はあまり馴染まないように思います。日本の母はアレでしょう、2ちゃんねるでよく見かける

              カーチャンJ( 'ー`)し  これこれ!これが一番しっくり来るなあ。

なぜか語られることの少ない事実ですが、まず母があるところに子供が来るのではなく、子供が信じた相手が母になるものです。私も子供が生まれて間もない頃は、決して母親などと呼べた代物ではありませんでした。子供に対して愛情も責任も実感できずに、夜遊びに行くのに母に子供を預けたり、おむつもミルクも手抜きすることばかり考えていました。そんな私のことを子供は信じていて、私の言うことには従うし、私の発言を信じて疑わないし、私の真似をするので、これはヤバイ(笑)と思って急ピッチで母らしき母を演じるようになったのでした。人らしい心を持った人ならば、子供のこの信じる気持ちを裏切ることはできないと思います。


*良いところには必ず小さな悪がある
これって、ものすごく大切な真実だと思うんです。少なくともこのことを肯定しないまま生きていくのは大変です。また、10代半ばで、人の社会には常に悪意があることに気づいた時に、いじけてしまって、自己嫌悪や人間不信に陥ったり果ては悪だけを支持したくなったりすると思います。(私にとっても苦悩の時期でした)そのような迷いを一発解消してしまいそうな言葉です。おそるべしユダヤの知。

血と血のあいだに

料理をしている時、特に骨も内臓もついているそのままの肉を買いその下処理をしている時、私は物語の欠如を感じて想像を奔らせてしまいます。私は本来狩猟あるいは飼育をしてこの肉を得るべきだったという思いが根本にあるからです。きっとそこには買い物という形で簡略化してはいけない手続きがあったはずです。

食材探しとしての狩猟や飼育の体験には、生き物との出会いがあり、かけひきや対話があり、運や神があり、大いなる第三者である自然界から肉を享受するという関係性があり、実感があります。

買ってきた鶏肉を調理しながら、鶏が生きていた頃の個性はどのようなものだったのか、食べるにはその鶏のことを知らなさ過ぎるということに気づきます。今日食べた鶏と先週食べた鶏が同じではないことを忘れながら食べていたのでは、味覚だって衰えるのです。

せっかく都会人として生まれたのでそういった原始的な感性を呼び醒ましたくないという人や、肉を食べることの罪を忘れるために肉屋があるのだという人も多いでしょう。いや、そういった人の方が多数派であり普通なのかもしれません。

検索中に見つけたキュートなケーキ画像

なぜ厨房は厳しいのか

koikeakira2006-08-11

この記事をボロクソにけなしてから支持した後でまたけなします。
最後の〆の文章が「それが人生なのだ」で終わるような信じられない悪文なので、最初の一ページだけ見てもらえれば十分です。むしろ読んだら脳に酢が入る恐れがあります。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20060727/107010/

何も見たことのない門外漢がこんな場所で発言権を与えられていること自体、この著者のような団塊世代成果主義から逃れた逃げの世代であることを見せ付けられた気持ちです。この人が最後に厨房を見たのが戦前なのでしょう。以降何も変わっていません。これは言わば普遍的な厨房の姿です。

私のバイト先は銀座の一等地のビルの最上階や赤坂駅前のビルなどに店舗を持つごくまっとうなレストランですが、私がここで「教えて」もらったのは、従業員用のトイレの場所くらいなものです。あまりに何も教えてくれないので、入ったばかりの頃オーナーに相談しました。そのとき直接聞いた言葉は、
「みんなあなたに教えなくてはいけない義理は無いのです。他の店でうちと同じ料理を出されたら、やはりイヤですし。」
新入りに簡単に料理を教えたりしない料理人をこそ、経営者は求めているのです。味を守るのも、正しい相手に伝えていくのも厨房で働く料理人の義務なのです。

この言葉を聞いた時は少しショックを受けました。しかし次第に次第に、これはイジメを肯定するような意地悪な皮肉どではなく、むしろとても優しい確信のある言葉であり、店のすべての料理のレシピを渡すよりもむしろ太っ腹な教えであることを噛み締めるようになりました。こういうことをはっきりと言ってくれる器のある人は、滅多にいるものではありません。

ファーストフード店の場合だったら、利益を上げるうえで秘密にしておかなくてはならない事柄というのは、店の中にはありません。ソースに何が使われているのか、ハンバーガーを作っている本人も知りません。でも、すべてが手作りの店の中には、秘密はすべてそこにちりばめられているのです。

ではレシピは守られなければならないかというとむしろその逆です。厨房で働いて特定のお客さんに奉仕することと、おいしい料理のレシピを一般に広めて社会全体に奉仕することは、全く別の仕事です。しかし原点は人を喜ばせたいという気持ちであり、料理という手段も同じです。しかしそれを同時進行でやるには村上信夫シェフのように一つの厨房には収まらない才能だけではなく、相当の習練と地位が必要なわけで、それをこの記事の著者のように一般のシェフに求めることはシェフにレシピを守る義務を怠れと言っているだけで本当にわけのわからない主張であるわけです。

現在でも村上シェフのようにレシピを紹介したり本を出したりといった活動に積極的な有名シェフが何人かいます。私の働いているお店もそのシェフの名を冠してますが、それでも厨房は厳しいのです。