マトリックスレボリューションズ

koikeakira2005-05-03

酷評を集めるマトリックスレボリューションズ。やっとDVDで見ました。リローデットを見たのが感覚的に五年くらい前なのでほとんど何も覚えてませんでしたがそれなりに楽しめました。Mifuneのネーミングにはこれは「リスペクト」のつもりですかとプスリしながらこのプスリを狙われていたのだったらどうしようと動揺しつつカッケー!と感動しました。武士道や軍人魂は、それを魅せるために興されてきた戦争もあっただろうと思ってしまうほど、それほど人を惹き付けるものだと思わされました。
中の人むき出しの魔道アーマーに燃え萌え、対machine戦は(戦争する前の)ハリウッドの底力、という感じでエキサイトできました。ここまでは非常に面白い映画だったと思います。
ネオのトリニティへの愛というのは執着的でオタクっぽく、かつての私の恋人とそっくりだったりしてなんだかイヤな感じがしていました。結局死という安易な究極へと持っていってしまった。こういった強い愛情は極みを目指してしまうのか、死を非常に意識します。私も、ウォシャウスキー兄弟も、失うことへの潜在的な恐怖に追いつかれたという気がしてなりません。結局、その情熱は持続が不可能だったのだと自ら語ってしまっているようで悲しいです。そうでない道を探して欲しかったです。
さて、問題の悟空対フリーザ戦は特に言いたいことは見つかりません。怒濤のような既視感だけが皮膚を包みます。やはりこの映画の致命的な欠陥ですね。

ガチンコ

デジャヴの中にアムロ・レイとシャアの姿がちらつきます。どうしてこういったドンパチ映画は最後にガチンコを持ってくるのだろう。クライマックスでの主人公とそのライバルは、いつも無理矢理モビルスーツや車やシップから引きずり出されてきて、拳を握らされる。それまで持っていた得物を剥ぎ取られるのは当たり前、代わりに剣を拾わされることも決して少なくありません。そんなに体で勝負したかったのなら、最初から相撲でも取ればいいじゃない、と思って冷めてしまいます。体で勝負を決めさせるわりには、結局ライバルの死因は最後の大爆発だったりシステムや建造物の崩壊だったりして主人公が最後に手を下すパターンはあまりありません。「男って馬鹿よね」って台詞で溜飲が下るほど私も馬鹿になれませんが言ってみたい衝動には駆られます。
運命を象徴するような負け方って、主人公に素手でぶちのめされるより他にもっともっと悲惨で劇的なのがたくさんあって、ラスプーチンみたいに最後は逃げられるわけがない場面で阿呆みたいに逃げて銃殺される、なんて惨めで平凡な死に方をされるほど、人々はまだ生きてるんじゃないかって噂をしたくなるとか、夢中で戦っているうちにいつの間にか勝ってしまった、あるいは本陣が勝利を宣言していたのに自分だけそれを知らずに戦っていた、みたいなリアリティとか、あるいは逆に殴り殺した相手の死体や光景が自分でもショックで勝利宣言ができない、なんていう展開が主人公に訪れてもいいんじゃないかと思うんです。劇的じゃないと言うかもしれないけれど、描き方によってはより劇的にできると思います。

漫画は書かない

ああ、絵が上手ければ自分で漫画を書くのに。と、この台詞をこれからの人生で何度となく呟くのは非常に気持が悪いです。私はどうせずっと漫画は書かない。なら漫画は絶対書かないと覚悟を決めて他の方法を探した方がいいです。こういうのは早く諦めた方がいいですね。
昔、司法試験浪人5年目の知人に向かって「お前はどうせ勉強できないし司法試験なんて受かりっこないんだから、早く諦めて可能性があるうちに他の道を探しなさい」と言った先生がいて、その人のことを私は深く尊敬しました。「大丈夫、諦めないで、きっと受かるよ☆」みたいなノリだけで気休めを言っている無責任な奴らが、その知人が自分の時間を浪費するのを助けるのとは違う。すごく責任を持っている。若者に対して何の理由なく責任を持とうとする大人というのは実に少ないですが、その態度に触れるだけで救われる思いがするものです。夜回り先生こと水谷氏もそういう数少ない人ですね。最近の大人は責任逃ればっかりだからな。私も少しでいいから、そういうふうにならなきゃ。