女性に求められるもの

koikeakira2005-07-15

はるかむかし女性には、容姿より性格よりもまず「働き者」であることが一般的に求められたと聞きます。家庭内や周辺での労働そのものが、今と比べてお話しにならないほど多かったというのは想像に難くありません。たぶん昭和の三種の神器以降から、妻にも恋人に対しても、女性に対して一般的に装飾性を求めることが(やっと)できるようになりました。そしてここ数年経済的余剰ともう一つの事情から、さらに新たに一つのものが女性に対して熱烈に求められてきていると感じます。名付けるなら呆楽とでも言いましょうか。

呆楽

呆楽というのは、万物に対してメタを無視する痴性、無知さ、無垢さ、奔放さといったようなものです。人は大人になるほどビタミンのように呆楽を欲します。皮膚下で細胞が入れ代わる時にビタミンが必要なように、メタレベルの認識が入れ代わる時には発想のビタミンが必要です。かつて正統な呆楽の供給者は子供たちでした。もう一つの事情とは小子化です。

丸の内

都内、特に丸の内での小子化は激しく、子供たちは絶滅したも同然です。子供が道端で遊ぶことが許されず、公共の場では大人のルールにおとなしくしつけられ、日曜日の公園が静けさにつつまれてしまう状況で、呆楽を摂取する機会はほとんどありません。しかしこの国の情報の(おそらく)五割近くがここから発信されていくわけです。ビタミン不足の情報たちです。(「サライ」とか、雑誌を読めば読むほど空しい気持ちになることが増えました。そこには豊かさが示されてあるはずなのに。)

山口もえは富の象徴

女性は呆楽の供給という、子供の代行者としての役割を求められるようになりました。
痴的な女性を天然と呼んでもてはやされ始めたら、人工の天然が一気に増えた時は笑いましたよね。以降人工の天然は増加傾向にあって、女性タレントは白痴を演じるようになり、「天然」という言葉は「癒し系」に変更されて、可愛いとされる女性の類型に呆楽は欠かせない要素になっています。女性が労働者ではなく、装飾的な生活者でもなく、子供の代行者という合理性においてマイナスの存在でい続けるための環境を保持するのには、男性の方に相当な経済的負担を要求します。山口もえを好きだと言う男性たちがその事にどれほど自覚的なのかはわかりません。私の目には山口もえは富の象徴のように映ります。

テイクだけじゃ済まない

子供を育てる間はこの呆楽をたくさん摂取して麻薬に痺れているような状態です。この幸福感は麻薬的です。しかし呆楽というのはそもそも非合理性ですから、そのものが生産に寄与する時はほとんどありません。子育て自体はものすごく大変です。(今日も熱を出したので営業をかけていた企業相手に日程を延期させて経営者としては死にたいよ!みたいなこともあるし、肩の腱鞘炎はずっとなおりません。)また子供が与えてくれる呆楽については、こちらとギブ&テイクです。親と子はフェアな関係です。
このやりとりによって、自分がどれほどの呆楽(あるいは癒し)を消費する権利があるか、どれだけあれば活き活きしていられるのか、その値を感覚として知ることになります。