鬱とよばれるもの

koikeakira2005-01-13

十六才の時、真実など何所にもないということを知った絶望で一人で暮らしていたワンルームに引きこもった。(家の事情でその部屋を与えられていた)
癒しようのない深い疲れだけが体を支配して、体中を膜のように覆い、私と空気を隔てた。それは本当にひどい疲れで体を動かすこともできなくなり、私は一日中ベッドの上の天井を見つめながら、過去のことのように人々の生きている世界を想った。
美と欺瞞と両方に満ちた世界を私は愛してたけれど、それらと私は隔たったのだと思うと、気が楽になり安心した。無力になった私には何もかも絶望的だったが、それが私と世界の本来あるべき姿だと悟り、やっと疲れが取れた思いがした。また、ずっとそうしていたいし、そうしているべきだと感じた。
しかし物理的な形而下のできごとが私の足をひっぱる。それらは全て私を疲れさせるだけの余計なものになった。肉体を維持させているものは親に依存していたし、食べ物を摂取して排泄しなければならなかった。そうしたものと縁を切る自殺とは、悲哀さもなければ自己陶酔の末路でもなく、実践的で前向きな解決策だ。ただ本当にそれが正しい選択なのかはずっとわからなかったし、最良の方法ではないと本能は訴えていた。
その時は何ひとつとして言葉にならず、ただ快楽だけが、私と現実をぼんやりとつなぎとめていた。それゆえ私はあらゆる快楽を憎んで蔑んだ。

カミュ「シーシュポスの神話」という本

カミュはこんな精神の荒野をl'absurde(不条理)とよんだ。
「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ」とこの本は始まる。
「(ガリレオの例を出して)地球が太陽のまわりを回るという真理が、真理だからといってそのために火焙りの刑に処せられるだけの値打ちはなかった」
「人生が生きるに値しないということは、死ぬ理由にはならない」
自殺願望者の必読書だと思う。真理を求めて自殺をしようとしていた私は、その前にカミュの言葉を論破する義務があると考えた。しかし私にはできなかった。それがカミュの思惑だった。

自殺願望の高慢

不条理は人をひきこもりにもさせるし、精神病院にも向かわせたり、自殺にも追い立てる。実は少し敏感な人なら誰もが体験するようなありふれた感覚にもかかわらず、不条理にはその孤独感、疎外感から自らを特殊だと自覚させる罠がある。孤独であることと特殊であることの違いは、子供の社会にとっては無いに等しい。「only is not lonely」は、そのonlyで生活をしている大人に一番わかりやすい言葉だ。子供には伝わらない。漠然と自殺するのは十代ばかりだ。
十代は不条理で一番苦労する。誰が悪いわけでもない。ただ無知による高慢さは嫌われる。自分のボキャブラリーの貧困さを隠しつつ、罠に落ちた彼らへの不快感をどうにかするために、「青い」などと茶化して若者に真摯に対話できない大人は多い。私はそんな連中が大嫌いだったし、今後とも私がそうなる予定は無い。

ファンタジーとしての鬱や繊細さ

ボンテージや刺青、ピアス、肉体改造、パンク、ゴスなどのファッションには死に近いという共通点がある。死は観念をファッションにするという意味では最も成功している/成功しやすいテーマだ。それに著しく記号化されている。ファッションは内部の記号化なので、それがファンタジーの素材になるのは普通だと思うけれど、居住区が近いからといってひきこもりや自殺をファンタジー化するのは多くの矛盾がつきまとう。
ひきこもりと自殺。前者はバッシング材として使われるほか、漫画や映画の取るに足らない作品の中ではどちらも繊細さの記号であり、その証明のように扱われる。キャラ設定にこの手のものがあると、非常に萎えるし見る気が無くなる。繊細さのステータス化をしている時点で非常に無神経で無頓着だ。ひきこもりや自殺は、そういうことができる人に扱えるテーマではない。
またそうした無神経な人々の作る中身の無い記号を、免罪符を買うように手にとり、陶酔しつつ貝印のカミソリを手首にあてる人は、自分の欺瞞を見抜けていない。これも繊細さとはいえない、図太い行為だ。
ひきこもりと自殺者をファンタジー化するという行為は非常に寒い。だから斉藤環は嫌われるし、何もわかっていないと言われ、夜想の編集長には「アチャー」と目を背けられる。