奴隷制
ヨーロッパ、特にフランス人にとってのリゾートとは奴隷制の復活を指している。
もう十数年前になるけれど、父に連れられた旅で、フランス領のどこかの島に寄った。タヒチだったかもしれないがよく覚えていない。とにかく五つ星のホテルだった(当時は裕福だったのだ)。
フランス人たちはホテルの従業員を非常に上手に使う。彼等を物のように、あるいは空気として扱い、人格を認めず、視線も認めず、また会話をする対象として認識しない。人間としての一切の関係を断っている。また従業員たちもそのように扱われることに慣れていた…父は「フランス人たちはいつもそうだ」と悪態をついた。他者を無とすることによって張られるバリアのようなものが彼等にはあった。
あのホテルは「サービスを買う」などというみじめったらしい消費観ではなく、れっきとした奴隷制の上に成り立っていた。極端な例ではあるけれど、こういった意識に触れると、日本がいかに平等であるかが改めて発見されて驚く。
アヒルの友達
そのホテルの部屋で一人で絵を書いて遊んでいる時(当時私は6、7才だった)、部屋の掃除に丸々とアヒルのように太った黒人のメイドが入ってきた。私は少しびっくりしたけれど彼女が掃除をしに来ただけだとわかったので、一緒に掃除を手伝った。その時の彼女の表情が忘れられない。
彼女ははじめ「どうぞ絵を書いていて」とジェスチャーし、少し困ったような、驚いたような様子だった。しかし私が彼女を真似てシーツを剥いで手渡すと、彼女は白い歯をむき出しにしてgrin!と笑ってくれた。私が仕事にちょっかいを出すたびに彼女は何語かわからない言葉で何かを言ってgrin!とした。私達は一瞬で友達になっていた。(子供って素晴らしい。)私ははりきって手伝った。最後に彼女が部屋を出る段階になって、私は父の言葉を思い出し、ただそういう決まりだからと、チップを彼女に渡そうとした。その時の彼女の表情。苦しい笑顔で彼女は紙幣を受け取った。彼女にそれを断る権利など無い。なんとなく気になっていたそんなことを今になって思い出し、やっとその表情の意味がわかった。
(ちなみに「アヒルのように太った黒人女性」といえば奴隷制の象徴であり、白人がこれを「古き良き時代」のシンボルだと言うシーンを20世紀前半のアメリカ文学に時折見かけます)
お客さまは神さまです
バブルによって失ってしまったもの、おかしくなってしまったものはたくさんある。その中の一つがこの言葉に表されている。三波晴夫が言ったものではあるけれど、これはここ十数年の消費文化を支えるルールとなって、つい最近崩壊した常識だったと思う。この言葉の運命は中流意識と供にある。
奉仕
「サービス業」という言葉の「サービス」の意味は、本来「奉仕」であるはずが、「特定の行為」という意味にまで縮小されているのが今の日本のサービス業の実態だと思う。現場にどれほどの「奉仕」の姿勢が用意されているかは運しだいで、これという指針が明確にされている場所は少ない。ディズニーランドと風俗くらいじゃないかしら。
もっとも、「これはしません」ということを明示しておくことは難しい。クレーマーなんかはそこに付け込む。クレーマーとは、心理的には奉仕して欲しい人なのだと思う。クレームの対応という奉仕を強いられる企業は可哀想だけれど、少しでもお金を出せば神様だと名乗れる雰囲気をつくってきたのだから因果応報と言えるだろう。クレーマーというのは消費社会の癌であり反逆者という感じで、私にとってはちょっと面白い存在だ。
ポリシー
こないだ、浅草のパチンコ屋の裏口の前を通ったら、店員二人に一人の男が担がれて外に放り出されていた。「てめー二度と来んなっつっただろ」と店員は男に一発蹴りを入れていた。また極端な例なのだけれど、消費者に対して卑屈になるだけだった日本の企業に、それくらいの気概を持つように変わって欲しいと思う。今日の買い手は明日の売り手と言うけれど、それを恐れて言いたいことも言わない、非人間的な利潤追求マシンに人間は成れはしない。全て客のいいなりになるのだとしたら、その企業は結局ポリシーの無い企業だということだ。利潤の追求よりプライオリティの高いポリシーを持つこと。一歩間違えば簡単に矛盾しかねない理想論だけれど、今みたいに物が飽和して、学生向けのアンケートでは仕事は収入よりやりがいで選びたいと7割が答えるような時代にはそういう会社が増えてもいいと思う。バブル以前のように。