ニジンスキー

koikeakira2005-10-21

バレエダンサーといえば完璧なプロポーション。間違いありません。でも過去にたった一人だけそうではないダンサーも存在していました。ロシアバレエ団のニジンスキー
背は低くずんぐりとしていて、異様に発達した太腿。その太腿で、「舞台の端から端まで飛んだ」「空中で静止した」とか。現代バレエの祖となった天才ダンサーは、その異形と呼ばれる体とエロティックな際どい振り付けで20世紀初頭のフランスの芸術家たちをメロメロにしたそうです。
当時のフランスといえばまずコクトーが出てきます。コクトーは詩や絵を書きますが、それらはとりわけ優れているというわけではなく、当時の芸術家がいるところにはコクトーが必ずいたという、AKIRAの金田のような存在だったと私は想像しています。
そんな男色家のコクトーと仲が良く、周辺のサロンに出入りしたといいますから、ニジンスキーは当時の芸術家達をことごとく物にしたのではないかと想像します。ロシアバレエ団の団長は彼が結婚した時、嫉妬から彼を追放してしまったという話しもあります。私には801属性は無いのですが、なんとなくニジンスキーの姿をカッコイイなあと思うのです。バレエ団を追放されたその後は20代で精神病院に入り、一生出てこられなかったそうですが。流星のような生き方だなと思うのです。

手塚治の危ない話

手塚治虫を偉大だと感じる最大の理由の一つに、性の探究があげられます。手塚治虫作品には何らかの境遇によって普通の人とは決定的に違ってしまった女性たちと、それに欲情する男たちが非常によく出てきます。体が透明な女性、障害を持つ女性、獣人、異常性欲の女性、などなど。中でも一番印象が強いのは「奇子」のタイトル同名の主人公です。
4歳の時に戸籍を抹消され、土蔵の地下に封印され、食事なども窓ごしに与えられて17歳になるまで一度も外に出られなかった奇子
奇子の肌は外気にさらされることが無かったため、傷もシワも一つも無く赤ん坊の肌のような瑞々しさを持っていたとあります。そして予測不能の子供のような奇妙な行動。異形のように美しい、強烈な妖しさを持つ美女です。男がわらわら寄ってきます。
戦後の混乱にある田舎と都市とを舞台にしたこの作品ですが、邪推すると、手塚治虫がこの作品を思い付いた最初のインスピレーションは「究極の肌を持つ美女をどうすれば創れるか」だったのではないでしょうか。そこから「土蔵に閉じ込める」→「社会的に抹消」→「保守的な権力者の犠牲」→「入り乱れる政治的な思惑」→「戦後の混乱」というふうに話しを広げたのが「奇子」の物語だったと、私には考えられます。つまり作品自体が奇子を土蔵に閉じ込め育成するための手段なのです。作品は痛烈な社会批判、完璧なシナリオ、露骨でありつつもポルノ性を排除した性表現で、手塚治虫らしい完璧な理性によって形が整えられていますが、その着想はなんとも鬼畜だというわけです。ラストでは奇子を不幸にした大人たちに天罰が下り、皆が皆死んでしまうわけですが、手塚治虫本人にも罪の意識があったのかもしれません。

異形の微笑み

手塚治虫作品を読んでいると、性の可能性を限界まで試してみたいという欲望について、手塚治虫は考えていたのだと感じます。性の領域のさいはてから投げかけられる妖しい微笑に、手塚治虫は恐れることなく目を合わせていました。その視線を感じた時、自分のセクシャリティを「正常」だと決めつけた凡人ならば、目を反らし見なかったことにしてしまうでしょう。また逆に、自分のセクシャリティを「異常」とみなした人達は、いたずらにその領界線を超えようとします。恐ろしいほど自由な感性を持ちながら、自分を買いかぶることも無かった手塚治虫のバランス感覚こそが神の業だと私は思います。

唯一無二

マスメディアの流す平淡なセックスシンボルに右へならい、自分の性を規定された範囲内に決めつけた凍りついたセクシャリティの持ち主に、私は恐怖とも怒りともつかないマイナスの感情を起こされます。私自身は体に障害やきわめて珍しい特徴を持っているわけではありません。しかし、愛されるなら公約数的な価値よりも異形のように愛されたいと思います。愛する人にとって、私は代替不可能でありたい。もちろん、異形の魅力と全人類に通じる魅力を両方持てたら一番いいことだと思いますけれどね。
ニジンスキーのように、異形のセックスシンボルとしてまさしく代替不可能な色香を放つ存在にはとても憧れます。写真でしか見ることのできないニジンスキーは、いまだに新しいファンを獲得し続けています。