過去を語る
『忘れられない過去というは、その当時の自分にとって重要だったのではなく、今の自分にとって重要な出来事なのです。』
この言葉は以前にもこのブログに書いた、私の師匠である作曲家K氏から頂いたものです。私の過去に対する考え方はこの一言に尽きます。
江戸からの流れで料亭を語ることは私にはできません。時代検証はすごく好きですが、私が本当に興味があるのは、自分と関係あることに限られます。自分の主観と、自分との位置関係という偏向を前提にしか、語ることができないのです。歴史家にはなれない人間です。
そんな私にできるのは、関東地域の最近の料亭事情をざっとお話することだけです。
花街懐事情
東京七花街と謂われていましたが、赤坂の見番が無くなるなど、料亭の数はどんどん減っています。街単位で二桁の料亭があるのは関東では向島だけです。向島には明治から料亭が立ち、今20数軒の料亭があります。なぜ向島だけが不況を生き残れたかというと、バブル後価格を大幅に下げたからです。他の花街では値下げはしていないようです。大きい料亭ほど大衆化は顕著で、はとバスツアーを受け入れる料亭もあります。それが現在の向島の文化状況です。苦渋の決断だったと思います。向島の女将は世襲が多く、プライドだけでのし上がったような成り上がりも少ないので、そこは返って柔軟です。
一方、昔からのお客さんに対してお会計は時価ですが、一見さんとはお部屋も違うし、入り口が違うところにあったりと明らかな差別がされています。客層の二極化と言える状況。
料亭の機能
私が出た料亭は四つだけなのだけれど、どこにも共通して言えるのは、決して文化伝統などというもののために料亭をやっているのではないということ。伝統を守る義務も無い。一番は金儲け。二番も金儲け。三、四が無くて五くらいにやっと美学がある。おそらくそれは料亭隆盛期の明治頃から大差無いものと思われます。芸者はサービス業です。また、教養のあるお客さんが必ずしも粋な遊び方をするわけではありません。違うのは民間レベルの文化。天才的に教養の高い芸者は現在も一人います。
文化(少し脱線)
この文化というやつは非常に信用できない言葉だ。文化というのは観察の対象である客体と、観察者である主体がいて初めて、主体の側に成立するものだから。
(どこかで聞いたような話だけれど)、日中暇な主婦が炬燵にみかんをはべらせてワイドショーの与汰話に聞き入り、コメンテイターの言葉を語尾だけ変えたのを自分のブログにアップしたとする。こんなの文化でもなんでもない。何の装飾性も信念も無いし、そこから芸術作品が産まれることも考えにくい。
ではこうしたら・・・
『日本語には「主婦」という言葉があり、これは既婚女性で収入を得るための労働をしない人のことを特に指している。男女の収入格差が先進国の中でも飛び抜けて大きい日本において、「主婦」はごく一般的な存在であり、「主婦」の退屈を紛らわすための「カルチャースクール」や「ワイドショー」などが存在する。特筆に値するのはTVプログラムの一種「ワイドショー」だ。ワイドショーは昼の10時から4時ごろまで各チャンネルで毎日放送される。収入を夫に頼るがゆえに活動範囲が狭く限定され、また自由も効かないという主婦の恒常的な不満を、社会に対する漠然とした不満に置き換えることで敵を自己の外に追いやり、辛口を売りにしたコメンテイターたちがその敵へ檄を飛ばすことで、世論と主婦が一体となり不満を解消するというものだ。正に「主婦」のためだけに作られた文化であり、ワイドショーは長らく主婦に愛されてきている。日々の暮らしを充実させる生活の知恵の一つだ。ちなみに、「ワイドショー」を見る時、伝統的な暖房器具であるこたつに・・・』
やりすぎた。とにかく見ようによっちゃなんだって文化だ。
ギャルがミニスカを襦袢に履き替えて芸者をやるっていうのも、文化的状況です。現・在・の。
S
Sのことを肯定的に捉える芸者もいます。新人を鍛えてくれる、という風に。Sは特殊技能の持ち主で業界に顔が効くので、女将の逆鱗に触れなければ叩き出されるということはないものと思われます。
嘘ペンさんへ
こんな話でもご参考になれば幸いです。そして私はもう部外者なので、もう言えることは無いな、と感じております