女の子だからプリキュア見せたくない

大きいお兄さんお姉さん向けの視線を受けて子供向けのアニメが絶滅してしまい、自分の子供に見せたいと思えるアニメは古いものしかありません。特に女の子は、幼いうちからアニメのキャラのように可愛く鑑賞される存在として飾り立てなくてはならないという(男性本位の)現実へと追い立てるのは残酷です。だからプリキュアはとても残酷だと思います。
まんが日本昔ばなしの復活はとても嬉しいです。NHKすら一部番組でアイドル教育を受けさせられた子供を映すようになってしまった今、純粋な子供向けの番組は本当に貴重でありがたいと思います。

「くまのプーさん」

ディズニーの昔のアニメは大人の即物的な欲望に染められていないので(そのように配慮されて作られています)幼児にも見せたいと思えます。「くまのプーさん」にしても、60年代に作られた3部作と90年代以降に作られたものでは全く毛色が違います。新しいものは説教臭く、言葉が多く、最後は必ず学校の先生のようなプーさんの小言で物語が締められます。大人の魂胆が見え隠れしていて、私は見ていてイヤな気持ちになります。
最初の3部作は進歩も反省も無い頭の足りない食いしん坊なプーさんを温かく見守るだけのアニメです。何の教訓も無いこと=合理性から外れていることが重要です。それが心の余裕を広げるのだと思います。教訓とは合理性そのものです。子供の心を焦らせても仕方ないと思います。
くまのプーさんは映像も音楽も素朴で美しく、特にラストのクリストファー・ロビンが子供時代にそっと別れを告げるシーンなどは幼児の夢の儚さに息が詰まります。現在の執拗なキャラクタ商品展開にはうんざりですが、ディズニーのくまのプーさんは素晴らしい作品です。

時代と表現

ところで昔のディズニーの短編には軍人、囚人、盲人、黒人、土人、はたまたドナルドのアマゾンで現地民をつかまえてサーカスに売る話など、今ではとても公開できないような大胆な内容のものが結構たくさんあります。ディズニーは対戦中には国策映画もたくさん作っています。大戦中、戦争とは武力のみならず芸術まで総動員させられるものだったんですね。今とは違うなぁ、とつくづく思います。わずかながら進歩したと言えるかもしれません。

ステレオタイプ

さて、そのアニメの中でディズニーは特定の人たちをステレオタイプ化してコミカルに描いているわけですが、そのほとんどは、よく言われるような差別的な感情にまかせて描かれたものだとは見ていて感じません。ちびくろサンボの廃刊の時にも「ステレオタイプ=差別ではない」という反対の声がありました。黒人に関しては差別もステレオタイプ表現も歴史があるのでそう単純な話ではないと思いますが。

"The Three Blind Mouseketeers"

短編「めくらのねずみの三銃士」も、ステレオタイプな盲のねずみを愛嬌たっぷりに描いていて、決して盲人を貶める意図があったようには見えず、むしろ盲そのものにスポットライトを浴びせています。陽気な映画です。

近づけば

こういうアニメを見ていると、ステレオタイプ的表現を規制することによって、障害者に関してはむしろ理解を遠ざけてしまったのではないかと思うことがあります。
誰だって自分のことを他人に正しく理解して欲しいと思います。私が日本人というだけで「眼鏡とカメラは忘れてきたの?」なんて言われたら「そんなのはステレオタイプだよ!私は違う!」と言うでしょう。でもそうして会話が成立して、相手の目の前にいるなら、そのことを理解してもらうのにそれほど時間はかかりません。近づいて見ればわかることです。

近づけない

本当に正直なところを言うと、子供の頃、特にダウン症などで見た目でそれとわかる人に対しては、まず「怖い」「理解できない」「硬直」という反応が最初にありました。これは私と障害者の距離がとても遠かったということを示していると思います。ただ怖くて逃げるだけで、近づこうという発想は全く持てませんでした。

一つの方法として

ステレオタイプという認識は、そういう理由の無い感情の緩衝材になってくれると思います。障害者に対してありきたりな誤解を植え付けるとしても、少なくとも「知らない、怖い、避けたい」というマイナス感情を払拭するならば、安い代償だと思うのは単純すぎるでしょうか?でもその単純なことが足りていないと思うのです。

もう盲人は三銃士になれない

現在の障害者に関する表現の規制は、単純に障害者への言及を禁止しているだけで、障害を持たない人間が障害者に何らかの形で言及することは内容が何であろうと全般的に「失礼」にあたるという奇妙なルールができてしまったと思います。ネガティブな表現も無ければ、ポジティブな表現もありません。「めくらのねずみの三銃士」はもう生まれてきません。だから、障害者に接触する機会の無い人が障害者に対してポジティブなイメージを持つ機会も全くありません。

私としては

私は外国へ行った時地元の人に「何考えてるのかわからない、気持悪い」と思われて無視されて避けられるよりは「おおジャポネ、自慢の歯をどこへやったんだ?」とからかわれる方が楽しいと思います。もちろんそうでない人もたくさんいますが。
そもそもステレオタイプ化される側の人がどう他人に接して欲しいかはその人によるだろうし、障害者にしても「障害者だから手助けして欲しい」という人や「障害者だと思って同情するんじゃない」という人もいるでしょう。難しい問題だし、私が彼らの幸せについて深く追求する必然性は現在の所ほとんどありません。

規制の結果

ただ、規制によりステレオタイプのイメージが根絶されてしまっては、彼ら自身が困ることもあるのではないかと思うのです。
先に挙げたように、現在の都市設計では知識あるいは情報として障害者のことを知る機会が全くありません。ポジティブなイメージを持つことも、実際に障害者と接してみた人でなければ難しくなっていると思います。
その結果として、障害者に対して周囲の人間が取り得る選択肢が極端に二分化しているのではないかと感じることがあるのです。その二つの選択肢とは、完全無視か、全面協力か。
時には、障害者の方でもそのように人を分けて考えているのではないかと感じることがあるのです。話かけると係の人と思われたり、片手を貸そうとすると両手両足を求められるようなことがけっこうあるからです。

「完全無視」=「交渉不能」の見限り

去年の秋のことです。バス停に車いすの人がいて、バスが来、車いすを持ち上げなければならなくなった時に、他の乗客は立ち上がらなかったので私と運転手の二人で持ち上げることになったわけです。運転手もパワーのあるタイプとはお世辞にも言えない雰囲気でした。持ち上げてみると本当に重くて、落としそうになるのを必死にこらえて、腰が砕けるかと思いました。腰の痛みは一月取れませんでした。あまりに痛さにもう二度と手伝ってやるものか、とすら思いました。だって、車いすの人は2人で車いすを持ち上げることは大変だということを知っていたはずです。(私は知りませんでした)それなのに「もう一人手伝ってくれる人を探しましょう」と言ってくれなかったのは、何故だったのか。

もう大丈夫なのでは

人の手を借りなければ外に出ることができない人にとって、理解を得られるかどうかはまさに死活問題です。ステレオタイプな理解が今まで障害者の生活を脅かしていたという過去はあったでしょう。でも今は、福祉はしっかりと研究されて、正しい方法が確立され、それに熟知したプロがたくさんいます。(私のバスの件は、実に間違った方法でした。)だから、障害者への対応は次の段階へと進んでも良いのではないかと思います。ステレオタイプな表現に対し、目くじらを立てて潰して回らなければいけないほど障害者が追い詰められた状況では無くなったはずです。それに、障害者が手を貸してほしそうな時にどうしたらいいかという知識も、車いすが重いという知識だって、イメージと共に入ってくることもあると思います。

そんなわけで私は目の見えない三銃士が剣で床を叩きながら歩くアニメを娘に見せるのです。

関連 神話の時代の障害者についてhttp://d.hatena.ne.jp/koikeakira/20040614